「悩む力」を読んで

甘たるいモノトーンの口調。見るからに生真面目で、その職業のイメージを地で行く政治学者。仕事を辞め自由時間が増えて悩むことが多くなったこともあり、「悩む力」を読んだ。最近、夏目漱石に興味を持ち始めたことも関係がある。
特に突き刺さったくだりとその感想を書く。

では、肥大化していく自我を止めたいとき、どうしたらいいのでしょうか。そのことを考えるとき、私がいつも思い出すのは、精神病理学者で哲学者のカール・ヤスパースが言ったことです。ヤスパースウェーバーに私淑していました。その彼がこう言ったのです。

「自分の城」を築こうとする者は必ず破滅する──と。

これは私もそうだったのでよくわかるのですが、誰もが自分の城を頑固にして、堀も高くしていけば、自分というものが立てられると思うのではないでしょうか。守れると思ってしまうのではないでしょうか。あるいは強くなれるような気がするのではないでしょうか。しかし、それは誤解で、自分の城だけを作ろうとしても、自分は立てられないのです。

その理由を究極的に言えば、自我というものは他者との関係の中でしか成立しないからです。すなわち、人とのつながりの中でしか、「私」というものはありえないのです。

高校野球児のような熱烈な友情をどこかで求めながら、学校や職場では積極的につながりを築こうとせず、むしろ避けてきたように思う。話しかけられる、誘われるのを待つタイプの人間だと思う。人を嫌う厭世家というラベルを自分に貼ろうとしている気がする。

他人とは浅く無難につながり、できるだけリスクを抱えこまないようにする、世の中で起きていることにはあまりとらわれず、何事にもこだわりのないように行動する、そんな「要領のいい」若さは、情念のようなものがあらかじめ切り落とされた、あるいは最初から脱色されている青春ではないでしょうか。

そして、脱色されているぶんだけ、その裏返しとして、ふいに妙に凶暴なものや醜いもの、過度にエロチックなものが逆噴射することになりかねません。最近頻繁に起こる深刻な事件や、ネット上の仮想空間を眺めながら、私はしきりにそう思うのです。

特に前段は、自分の過去と現在をズバリ表現していると思う。光を浴びたようでむしろ爽快。後段については、凶暴なものや醜いものには価値をまったく感じなかった。逆噴射という言葉遣いも面白い。自分はこれまで「反動」とか「崩れる」という言葉で表してきたが、それよりも直感的にわかりやすい。

宗教などを抜きにして、自分がやっていること、やろうとしていることの意味を自分で考えなさい──。これは非常にきつい要求です。何かを選択しようとするたびに、自我と向きあわねばならず、その都度、自分の無知や愚かさ、醜さ、ずるさ、弱さといったものを見せつけられることになります。その点では、逆説的に聞こえるかもしれませんが、「現代人は心を失っている」という言い方は間違いで、前近代のほうがよほど心を失っていたのです。

何をどう考えればいいのかすらわからずに、思索をしているようで、浮かんできた知覚のかけらを握ってはしばらくして別の問いに心が移る。自我というものがまだ自分の中で定まっていないが、こうしたことを考えるとき、まったく散漫な思考しかできない自分が嘆かわしくなる。宗教やスピリチュアルに走ったことはないが、救いを求めたくなる気持ちはよくわかる。

ですから、私は「人はなぜ働かなければならないのか」という問いの答えは、「他者からのアテンション」そして「他者へのアテンション」だと言いたいと思います。それを抜きにして、働くことの意味はありえないと思います。その仕事が彼にとってやり甲斐のあるものなのかとか、彼の夢を実現するものなのかといったことは次の段階です。

「不機嫌な職場」はアテンションが乏しい職場だと思う。挨拶もなく出社し、インスタントメッセンジャーでの会話がはびこり、休憩中の会話も事務的な作業に化す。やるせなさから自らを代替可能な歯車と堕してみたり、たまに心に響く会話ができたりすると発作的に気分が弾む。「ねぎらいのまなざしを向けること」。自分への強烈な忠告であり助言。

「私にとってこの人は何なのか?」と問うことは、問いかけ自体が間違っているのではないでしょうか。すなわち、相手と向きあうときは、相手にとって自分が何なのかを考える。相手が自分に何を問いかけているのかを考える。そして、それに自分が応えようとする。相手の問いかけに応える、あるいは応えようとする意欲がある、その限りにおいて、愛は成立しているのではないでしょうか。

1月から営業の仕事に就く。「相手」を「顧客」と読み替えてみる。1年後の自分に反省してほしい。

さて寝よう。明日は何を悩もうか。