「営業の聴く技術 SPIN」を読んで

以前勤めていた会社の営業部長が好きだった本。しばらく営業から離れていたが、またこの職に就くことになったこともあり改めて読んだ。

  1. 「私は、『ビジネス上の課題解決(策)提案』のプロ」
  2. 「私の役割は、『お客様のビジネス上の課題解決のため、自社製品(または他を含む)を使った解決策を提案する』ことであり、『お客様がベストな意思決定ができるようにサポートする』こと」
  3. 「私の会社の『顧客満足(CS)』とは、『お客様のビジネス上の課題を解決する』こと」

顧客から見た営業の役割を簡潔に表現していると思う。備忘録として書いておく。

「問題質問」はその現状に対して、「あなたはどう思いますか?」という顧客の意思・考え・評価(不平・不満など)を聞く質問

何を問題視しているのかを探る質問。提案の糸口になる。

示唆質問作成のヒント

  1. 時間:遅れ、間に合わなくなる、迷惑をかける
  2. 労力:ムダな仕事、二重作業
  3. 経費:コストアップ、ムダな出費
  4. 責任・立場:あなたの立場、会社の責任
  5. 他者・他部門・他企業:迷惑、顧客の信頼、CS

これらの切り口であらかじめ示唆質問を準備しておく。問題の重大性・緊急性に気づいてもらう。

  1. 特徴(Features)=特徴・機能・性能・成分・価格(事実)
  2. 利点(Advantages)=効果・効用・役割など(一般的な解決策)
  3. 利益(Benefits)=顧客の潜在ニーズに合った解決策(健在ニーズをどう満たすか=解決策)

実際は、“B-FAB”の順序です

“B(F)”で十分だと思う。顧客にしてみれば、FやAは既知の情報であったりBに比べれば優先度の低い情報であったりする。情報の非対称性がなくなり意思決定のスピードが求められる今の時代、省いてもいいケースが増えているのではないか。また、Fは必要があれば話す、あるいは資料に添付する程度でいいと思う。だから(F)とカッコをつけた。「突き刺さらない」言葉はいらない。読んでいても字面を目が滑るだけ。聞いていても翌日には忘れるだけ。

Chapter1から7まで205ページの本だが、Chapter4と5(88ページ〜168ページ)は読む価値がある。惜しむらくは具体例や詳細説明がやや欠けていること。それ以外のChapterは同じ内容の繰り返しや常識の焼き直しが多かったり、皮相な説明が多いように思う。コンサルファームや研修会社が執筆している多くの本と同様、研修の受注につなげるという意図があるのかもしれないが。

スキルアッパーの悩み

派遣切りや内定取り消しが相次いでいる。仕事に就けない人が多く出てきている。市場縮小による人員過剰への懸念から、仕事の量が減っている。
仕事の量が減る要因は他にもある。競合他社に奪われる。機械に奪われる。若い人に奪われる。中国人やインド人に奪われる。「奪われる」だけでなく、ITの発達でその仕事が「なくなる」ことすらある。
スキルアップしなければ仕事にあぶれる。仕事はあっても給料は上がらないこともある。インフレと増税を考えると実質賃金が下がることもある。スキルアップ、その努力を「定年」まで要求される時代を生き抜かなければいけない。
上り坂が途方もなく続いていて、それを見ただけで虚脱感に襲われる。休みなく登り続けなければならず、考えただけで不安と強迫観念にさいなまれる。道が幾筋もあり、どこを進めばいいのか途方に暮れる。奮起して登っていったところ、人が多くて前に進めない。なぜ上り坂があるのか、なぜ登らなければいけないかという意味がわからず、右往左往の末にへたり込む。「少しのことにも先達はあらまほしき事なり」なんて思っていたら、その先達はリストラの嵐に遭いどこかへ飛んでいってしまう。
考えているうちに気分が重たくなる。ひらめきが信じられなくなる。身近なものの中に正解があると思い込みたくなる。
今夜もスキルアッパーの悩みは尽きない。

大庄

株主や社長、幹部社員は楽をして金を稼ぐ。平社員は安い給料で死ぬほど働く。過労と心労が祟って社員が死んだ。
その死んでしまった社員に対して搾取側の彼らは言う。「勤務実態などの事実関係は提訴の内容を確認できていないのでコメントできない」。社員の勤務実態を把握できていないとは、管理者(搾取側)が無能なのだろう。怠惰で、そして恥知らずなのだろう。誠意と善意が残っているなら即座に自ら確認すべきだ。タイムカードを見たり同僚スタッフから聞けばある程度の実態はつかめるはず。

これが、店のために身を粉にして働いてきた社員に対する態度か。子供をなくした親御さんに対する態度か。あまりに冷酷だ。

訴状によると、吹上さんは昨年4月に入社。滋賀県の店舗で勤務していた。月平均約98時間残業し、8月に自宅で死亡。不整脈による心臓性突然死だった。

死亡までの4カ月間、厚生労働省による過労死の認定基準の月80時間を超えていた。また、給与体系表上の最低支給額は19万4500円だったが、欄外に「時間外80時間に満たない場合、不足分を控除する」と記載されていた。実際の最低支給額は12万3200円だった。

大津労働基準監督署は今月、吹上さんの死亡を労災と認定している。
(引用元:http://www.47news.jp/CN/200812/CN2008122201000449.html

人殺しの会社が経営する以下の店には二度と行かない。

「はい、よろこんで」という覇気のある明るい声が、日本をもっと元気にしていくことを私たちは願ってやみません。代表取締役社長 平辰
(引用元:http://www.daisyo.co.jp/company/index.html

「はい、悲しんで。はい、謝罪して。はい、償って」。

「悩む力」を読んで

甘たるいモノトーンの口調。見るからに生真面目で、その職業のイメージを地で行く政治学者。仕事を辞め自由時間が増えて悩むことが多くなったこともあり、「悩む力」を読んだ。最近、夏目漱石に興味を持ち始めたことも関係がある。
特に突き刺さったくだりとその感想を書く。

では、肥大化していく自我を止めたいとき、どうしたらいいのでしょうか。そのことを考えるとき、私がいつも思い出すのは、精神病理学者で哲学者のカール・ヤスパースが言ったことです。ヤスパースウェーバーに私淑していました。その彼がこう言ったのです。

「自分の城」を築こうとする者は必ず破滅する──と。

これは私もそうだったのでよくわかるのですが、誰もが自分の城を頑固にして、堀も高くしていけば、自分というものが立てられると思うのではないでしょうか。守れると思ってしまうのではないでしょうか。あるいは強くなれるような気がするのではないでしょうか。しかし、それは誤解で、自分の城だけを作ろうとしても、自分は立てられないのです。

その理由を究極的に言えば、自我というものは他者との関係の中でしか成立しないからです。すなわち、人とのつながりの中でしか、「私」というものはありえないのです。

高校野球児のような熱烈な友情をどこかで求めながら、学校や職場では積極的につながりを築こうとせず、むしろ避けてきたように思う。話しかけられる、誘われるのを待つタイプの人間だと思う。人を嫌う厭世家というラベルを自分に貼ろうとしている気がする。

他人とは浅く無難につながり、できるだけリスクを抱えこまないようにする、世の中で起きていることにはあまりとらわれず、何事にもこだわりのないように行動する、そんな「要領のいい」若さは、情念のようなものがあらかじめ切り落とされた、あるいは最初から脱色されている青春ではないでしょうか。

そして、脱色されているぶんだけ、その裏返しとして、ふいに妙に凶暴なものや醜いもの、過度にエロチックなものが逆噴射することになりかねません。最近頻繁に起こる深刻な事件や、ネット上の仮想空間を眺めながら、私はしきりにそう思うのです。

特に前段は、自分の過去と現在をズバリ表現していると思う。光を浴びたようでむしろ爽快。後段については、凶暴なものや醜いものには価値をまったく感じなかった。逆噴射という言葉遣いも面白い。自分はこれまで「反動」とか「崩れる」という言葉で表してきたが、それよりも直感的にわかりやすい。

宗教などを抜きにして、自分がやっていること、やろうとしていることの意味を自分で考えなさい──。これは非常にきつい要求です。何かを選択しようとするたびに、自我と向きあわねばならず、その都度、自分の無知や愚かさ、醜さ、ずるさ、弱さといったものを見せつけられることになります。その点では、逆説的に聞こえるかもしれませんが、「現代人は心を失っている」という言い方は間違いで、前近代のほうがよほど心を失っていたのです。

何をどう考えればいいのかすらわからずに、思索をしているようで、浮かんできた知覚のかけらを握ってはしばらくして別の問いに心が移る。自我というものがまだ自分の中で定まっていないが、こうしたことを考えるとき、まったく散漫な思考しかできない自分が嘆かわしくなる。宗教やスピリチュアルに走ったことはないが、救いを求めたくなる気持ちはよくわかる。

ですから、私は「人はなぜ働かなければならないのか」という問いの答えは、「他者からのアテンション」そして「他者へのアテンション」だと言いたいと思います。それを抜きにして、働くことの意味はありえないと思います。その仕事が彼にとってやり甲斐のあるものなのかとか、彼の夢を実現するものなのかといったことは次の段階です。

「不機嫌な職場」はアテンションが乏しい職場だと思う。挨拶もなく出社し、インスタントメッセンジャーでの会話がはびこり、休憩中の会話も事務的な作業に化す。やるせなさから自らを代替可能な歯車と堕してみたり、たまに心に響く会話ができたりすると発作的に気分が弾む。「ねぎらいのまなざしを向けること」。自分への強烈な忠告であり助言。

「私にとってこの人は何なのか?」と問うことは、問いかけ自体が間違っているのではないでしょうか。すなわち、相手と向きあうときは、相手にとって自分が何なのかを考える。相手が自分に何を問いかけているのかを考える。そして、それに自分が応えようとする。相手の問いかけに応える、あるいは応えようとする意欲がある、その限りにおいて、愛は成立しているのではないでしょうか。

1月から営業の仕事に就く。「相手」を「顧客」と読み替えてみる。1年後の自分に反省してほしい。

さて寝よう。明日は何を悩もうか。

子供に読んでもらいたい本

小学生のころ道徳という授業があった。教科書を読んで作文を書いたり、戦争を経験したお年寄りの話を聞いて感想文を書いたりした記憶がある。
悪さをして親から怒られたことはたくさんある。してはいけないことを叱られながら場当たり的に学んだ格好だ。でも、してはいけないことを判断する軸は教えられた記憶がなく、自らも進んで追究したことがない。逆に、「人はこうあるべきだ」「こういう考え方、心の持ち方をするべきだ」ということも、道徳の授業や親の言葉その他いろいろな情報に接してきたが、ついぞ確立されていないように思う。
お前は無宗教だ。そのとおりだ。お前は感受性や道徳心がそもそも弱い人間だ。恥ずかしいが、そうかもしれない。でも、そんな人間のままでいたくないという思いだけは持っているつもりだ。
さて、わが子よ。29歳にもなって善悪の判断軸が定まっていない男になってほしくない。いろいろ話してあげたいが、もしかしたら自分の身に何かがあって、生き方や考え方を伝えられないことがあるかもしれない。もしお父さんがいなければ(仮にいたとしても)下にあげる5冊の本は読んでほしい。人生で途方に暮れるようなことがあったら何度も読み返してほしい。

武士道 (岩波文庫 青118-1)

武士道 (岩波文庫 青118-1)

光あるうちに―道ありき第三部 信仰入門編 (新潮文庫)

光あるうちに―道ありき第三部 信仰入門編 (新潮文庫)

ビジネスマンの父より息子への30通の手紙    新潮文庫

ビジネスマンの父より息子への30通の手紙 新潮文庫

こころ (新潮文庫)

こころ (新潮文庫)

あと一冊あげるならば、市販されていないが「生活のささえ」(三千院門跡法務教学部)も読んでほしい。文庫より小さく薄い、小冊子というべき本だが、本棚のどこかにあるはずだ。
今から9ヶ月前、あなたの名前を一生懸命考えた。そして、名前に「徳」という漢字を含めた。いつの日か一緒に酒を飲みに行く日が来れば、徳の意味を議論したい。その日が来るまで死にたくない。

何かを好きになれる能力

これまで何かを嫌い、時には憎み、その対象を負かしてやろうという考え方で生きてきたような気がする。
給料を使い込み、結婚相手(母)に暴言を吐く父親が嫌いでたまらなかった。学歴で人をバカにするタイプだった。親父は公立大学の経済学部卒だが、自分は親父より偏差値の高い国立大学の経済学部に入学した。
ただそれだけ、大学を選んだ理由は。他の人は「獣医になりたい」「映画を勉強したい」などの理由で大学と学部を選ぶものだと思うが、自分は父親を偏差値で負かしてやろうという考えで大学を選んだ。今になって思えば、あの大学で4年間を過ごした意味は何だったのだろうと思う。気が抜け、骨が解け、自分の存在が虚ろになる感覚に見舞われる。
転職するときもそうだった。会社が嫌いになった。いつしか同僚までも嫌いになった。そして、もっと有名な会社に行ってやるという考えで仕事を変えてきた。そして今になって気づく。目の前に漂う不気味な闇に押しつぶされそうになっていることに。
何かを好きになりたい。すぐに冷めたり諦めたりするような考え方はいらない。でも、30年間知らず知らずのうちに固まった考え方がなかなか変えられない。子供にはそんな生き方はしてほしくない。何かを好きになってほしい。そんな自分を誇ってほしい。そうして親父を泣かせてほしい。

「何を食べてもおいしい」という幸せ

先日、遠い親戚のおじいさんと焼肉を食べに行った。その人は現在73歳、太平洋戦争も経験し、終戦時は10歳だった。

おじいさんは言う。「ワシらの時代は食べるものが全然なかった。だけどアンタらの時代は何でもモノがあってええな。食べるのに何の不自由もない。幸せやろ」。

うん、なるほど、そうだね。でも、これまで生きてきた中で何百回と聞いたよ、その類の話は。

おじいさんは続ける。「でもな。食うモノがなくていつも腹をすかしてたけど、ワシも幸せやったよ。何を食べてもおいしい思えるからや。今でもそうや」。

何を食べても幸せを感じることができない自分。何を食べても幸せだと思えるおじいさん。少し焦げてしまったロースをほおばりながら、自分の貧しさを思った。